サイパンの戦いと戦争の傷跡 サイパンの青い空とサンゴ礁の海

サイパンの戦いと戦争の傷跡

サイパンの戦いというのは、太平洋戦争のなかでの戦いです。1944年6月15日から7月9日にかけて行われました。アメリカ軍と日本軍がマリアナ諸島のサイパン島で行った戦いです。結果はアメリカの勝利として終わりました。当時の指揮官は「大日本帝国」側が斉藤義次中将、アメリカ側はリッチモンド・ターナー中将とホランド・スミス中将です。日本軍は、第43師団が戦いに臨みましたが、アメリカ軍にサイパン島を占領されたのです。

もともと戦力に大きな差があったのです。大日本帝国は、31,000、それに対してアメリカ軍は、71,000だったのです。

この戦いにより、日本側は戦死者21,000、自決8,000、および捕虜は921という損害が出ました。一方、アメリカ側は戦死者35,000、戦傷車は13,160でした。

この戦いは、1944年6月13日に、アメリカ軍によるサイパン島に対する空襲から始まりました。その後、戦艦や上陸船団を伴った艦隊がサイパン島に接近しました。そして艦砲射撃が開始されたのです。このサイパン島への侵攻で驚いたのは日本軍でした。

連合軍は、1943年から1944年の前半にかけて、ソロモン諸島、ギルバート諸島、マーシャル諸島、ニューギニア島のパプア半島を攻略しました。その後、カロリン諸島、パラオ諸島、そしてとうとうサイパン島がある、マリアナ諸島へと迫ったのです。

なぜ、マリアナ諸島がアメリカ軍の攻略の目標となったのでしょうか?それは、アメリカ軍の新型爆撃機B29が完成したからでした。マリアナ諸島で連合軍が勝利し、それを手に入れれば連合軍は東京はもちろんのこと日本全土を攻撃圏内におさめることができます。日本軍もこれに対して作戦を立てました。これが「あ号作戦」です。

そして日本陸軍は、昭和19年2月25日に第31軍を編成しました。中部太平洋の戦況が緊迫したことによります。第31軍はサイパン島にその司令部を置きました。

第31軍は、中部太平洋方面艦隊司令部の指揮を受けることになりました。そして軍司令部が所在していたサイパン島には、第43師団と独立混成第47旅団、他、が派遣されました。しかしこの第43師団の輸送は難航しました。アメリカ潜水艦の攻撃に遭ったからです。また、重火器の不足など、戦いは苦戦を強いられました。そのほか、時間的な余裕もなく、簡単な塹壕しか築くことができませんでした。

結局、戦いはアメリカ軍の勝利に終わりました。この戦いの後サイパン島はこれに続くグアム島やテニアン島の攻略が始まったあとでマリアナ諸島での作戦やフィリピンへの侵攻の拠点となりました。その他、フィリピンや琉球諸島、日本本土への爆撃を行うための基地として使用されてしまったのです。

その後、日本がポツダム宣言を受諾したのちも、それを知らない海軍将兵が遊撃戦を継続し、サイパン島はなかなか戦争から解放されなかったのです。

サイパン島の観光にはリゾートなどでの娯楽も含めて、これらの戦争の傷跡をしばし歩いてみることもお勧めします。現在でもアメリカ合衆国のコモンウェルスという立場にあることから、さまざまな規制のもとで生活している、住民の本当の姿をみることができるかもしれません。

たとえば、聖母マリアの祠があります。戦争中にカトリック教徒が建てたものです。戦争の終結を願い、マリアの像を安置したのです。

この聖母マリアの祠に行くには、まずキャビトルヒルからクロスアイランドロードを南下します。そのあと、Y字路にさしかかったら、そこを左折すると、そこにマリア像が建てられています。道脇には、小さな看板があります。ただし見落としがちなので注意が必要です。

その他、バンザイクリフも戦争をめぐるスポットです。島の最北端の岬です。ここは、第2次世界大戦中に、追い詰められた日本人兵士や民間人がこの断崖から80メートル下の海に身を投じたのです。このとき米国軍はやめるよう説得にあたったそうです。その数は1万人ともいわれ、この悲劇の大きさを示しています。現在は、慰霊碑が建てられています。また、たくさんの供養塔もあります。

サイパン
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